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◆現代の食の礎(江戸の食文化と生活)◆

  徳川家康が転封によって江戸に入府したのは、天正18年(1590年)でした。人口は定か ではありませんが江戸は葦の立ち茂る広大な湿地帯でした。家康が関ヶ原の戦いに勝利し 大阪城を攻め落として豊臣家から完全に政権を奪うと、天下普請として全国の大名を動員 して、江戸の町造りに邁進していきました。五街道の整備・江戸の水道としての上水道 ・江戸城の普請・等大名にとっては大きな負担にもかかわらず、それが功績として評価 されたため、江戸の町造りは飛躍的に進み反面大名達の経済力は低下していきました。 明暦3年(1657年)明暦の大火が起こり江戸の市中の60%が焼失しました。幕府は 大火の後、復興計画を立て武家地や寺院の移転・町人町の新設等により、防災に強い拡大 する都市を作っていきました。江戸は260年間戦のない世の中で外交的にも鎖国という 体制をとり、平和な世の中が文化を発展させ、生産が向上し、生活も豊になりました。 18世紀の初めの享保年間(1716~1736年)期に総人口100万人そのうち武士が50万人僧侶 町人が50万人で江戸の70%の土地に武士が住み、寺社地が15%で残りの15%に町人が住ん でいました。同時期に大阪は30万人・京都は40万人世界の都市でロンドン60万人パリ 50万人で江戸が世界一の都市でした。文化においても士農工商という身分制度がありな がら武士の支配階級の文化が広がったものではなく、庶民の文化が開花するのに対して 武士(幕府)は禁制の御触書をだして制限しました。 江戸は過去に葬り去られた都市ではなくまさに現代の東京の原形です。

 食生活ーファーストフード   

享保3年(1743年)の幕府の調査によると、江戸の人口構成は男性が約31万6000人女性 が約18万5000人で圧倒的な男性社会であった。地方から流入する男性の単身者の比率が高 かった江戸は外食産業が成立する基盤があったといえます。こうした飲食業がどの位 あったのかというと、文化元年(1804年)の幕府の調査では6165軒でありました。喜多川 守貞のΓ守貞漫稿」(近世風俗史)によると煮物を売る菜屋・刺身屋・茶漬屋・うどん屋・ 蕎麦屋・寿司屋・鰻屋・煮豆屋等があり、圧倒的に多いのが蕎麦屋・鰻屋・天婦羅屋が多く、 現代のファーストフードの先駆けといえます。江戸っ子は宵越しの金は持たないの言葉通り江戸では生活するには充分な仕事がありましたが貯蓄する程の余裕のある収入は なかったようです。江戸の町民は外食好きだったようです天ぷらや鮨の材料として使われる 種材は江戸前といわれる江戸の近くの海品川や芝沖で獲れた海産物が使われました。

 そば   

そばは肥沃な土地でなくても生育し、救荒食として歓迎されていました。それまでは餅状 にして蕎麦掻きとして食されていましたが江戸時代に現在の食べ方に近いΓそば切り」が考案 されてから爆発的な人気を得ました。十六文(約400円)で食べられるそばは安い・早い・ 美味いの三拍子揃った江戸っ子向きの食べ物でありました。そば屋は各町に一軒あるといわれ 、3700軒はあったといわれます。江戸時代の後半だし(かつお節)と醤油の普及によってつけ 汁の味も向上して、せいろで蒸したΓそば切り」として、汁をぶっかけただけのΓぶっかけ」 温かい汁で食べるΓかけ」が考案されました。そばはそば粉100%でも麺にすることができます がかといってそばの味を楽しむにはつなぎが多いと美味くなりません。有名なΓ二八そば」の 意味はつなぎである粉の割合を示しているのか又はかけそばが一杯二八の十六文であったのかは 論争の的となっています。

 天ぷら   

日本は水に恵まれた土地が多く、水を使った煮物などを中心に発達した料理の特徴がみられ ます。油を使用するのは特殊な場合で日常的には焼く・茹でる・煮る・蒸すが料理の主流でした 。油を使った料理法はまれで庶民のハレの日などには接待料理などで揚げ物に接する機会が あったようです。寛永元年(1748)刊のΓ料理歌仙の組系」に天ぷらは何魚にても饂飩の粉を まぶして、油にて揚げる也とあるのが文献上に初めて登場しました。天ぷらは決して高級とは 言い難い食べ物でしたが、庶民には人気があり串刺し(一串四文ぐらい)で売られており、屋台 の食べ物として好んで食べられていました。江戸の天ぷらのネタは江戸前の穴子・芝海老・こはだ ・貝の柱・と魚の種類も多く食べられていました。魚介類を油で揚げるのを天ぷらと呼び、野菜類 を揚げたものを精進揚げと区別していました。江戸中期以降菜種油やごま油の増産が盛んとなり 高級料理へと進化していきました。

 鮨   

米飯の発酵材料から始まった熟鮨にはじまり、押し鮨・笹巻鮨と変化をとげ文政年間に酢飯に生魚 の切り身をのせた現在の形に近いものができたと思割れます。鮨種はこはだ・白魚・鮑・玉子焼き・ 鮪の赤身・海老で値段も1個4文~8文で鮨飯も現在の1.5~2倍くらいあったと思われます。手軽に 食べられ職人などが2~3個ちょっとつまむには最適な食べ物だったと思われます。4個や5個も食べるのはΓ粋」ではないといわれました。下魚として扱われていた鮪も天保二年豊漁と醤油に漬けおく Γづけ」の開発で評価がよくなりました。最初は屋台での庶民の食べ物として始まった為、下賤の 食べ物として武士階級の人々には食べられなかったようです。天保年間に登場するΓ稲荷寿司」も安価でもつぱら庶民の食べ物としてはじまりました。

 食のスタイルの変化ー高級化と食のレジャー    

明暦の大火以前には料理を食べさせる店はなかったといわれますが、この大火の復興のなかで Γ奈良茶飯屋」ができました。奈良茶飯は奈良の茶粥のことで江戸の外食店の始まりです。このあと 庶民の人々は安い屋台売りで食欲を充たしていました。江戸中に料理店が出始めたのは宝暦・明和( 18世紀)の半ばごろです。料理茶屋は各藩の留守居役富豪な商人・文化人が客でした。当時の店と して有名なのは升屋(深川)・平清(深川)・万八楼(柳橋)・八百善(鳥越)などで多くは隅田川 沿いの絶景の場所にありました。そして升屋なきあと高級料理店のトップに踊りでたのは八百善でした。 八百善は最初八百屋でしたが四代目善四郎の時料理屋に転じます。宣伝方法として料理小切手(現在 の商品券や・起こし絵自からも料理本(江戸流行料理通)を出版して人気を博しました。外食で美味 しい物珍しい物を食べるという現在のグルメブームと同じでした。天ぷらや鮨も材料の良い物を使い 高級化していきました。会席料理が中心で社交場的性格をもつ高級料理店でした。会席料理を筆頭に 本膳料理・中国料理である普茶料理・卓袱料理・茶道から発展する懐石料理と日本料理の様式が大成 したのが江戸時代の後期のことでした。 泰平の世相を反映する大会も催されました。千住の宿で 行われた大酒飲みの会や両国柳橋で行われた大酒・大食いの大会のように食べることがやっとだった 時代からそれらを遊びとしてとらえる視点がでてきたのもこの時代の特徴です。 現代のグルメブーム・大食い選手権の先駆けと言えます。

 伊勢まいり―旅行ブーム    

稲作農耕が多く占める日本では、農閑期(比較的暇な時期)という時期があり、ヨーロッパのような放牧が盛んな地域では  毎日放牧する仕事があり長期の休みは取れませんでした。この期間を利用して伊勢まいり・富士講・大山まいり等が多く おこなわれ、一般庶民でも信仰の為という名目で檀家寺にもらった往来手形、名主(又は大家)にもらった関所手形で旅の許可がおりました。かといって長期の旅行には大金が必要でありそれらはΓ講」という寄合を作り皆でお金を積み立てて代表の者がかわりばんこにお参りに行くという形式です。伊勢まいりを例にとりますと、まず伊勢神宮周辺の旅籠がΓ御師」と いう現代でいえば宿と旅行客をつなぐツーリストで彼らが毎年秋から年末にかけて檀家の方へ大麻(御札)と伊勢暦と手土産(白粉や鏡等)を配布していきます。旅行の日程や人数が決まると宿と旅の手配をすることになります。享和三年(1718)年の山田奉行所の記録では正月から4月にかけて参拝者は42万7500でした。道中は江戸見物や鎌倉・浅間神社・熱田神宮・名古屋城等の Γ道中記」にのっている名所を見学しながら伊勢まで行くという信仰とはかけ離れた物見遊山的な旅でした。抜けまいりというのも ありまして若者たちが親や主人に無断で参宮する者もいました。(寺社や名主に無許可)宿に着くと神楽を見たり豪華な祝い膳を食べ 夜具も絹の羽二重を用意され極楽気分だったようです。帰りは高野山から大阪・京・奈良も観光した大旅行でした。

 歌舞伎ーイベント    

歌舞伎は出雲大社の巫女(みこ)だった阿国が歌舞伎踊りを踊って京都で人気になりました。これが歌舞伎の始まりといわれて います。その後若衆歌舞伎ができたのですが歌舞伎が庶民の娯楽として発展しすぎたため幕府による規制は厳しかったようです。 元禄期江戸では市川団十郎の荒事、京都では坂田藤十郎の和事が評判をよびました。寛永元年(1624)年中村座を浅草猿若町に 移転し猿若勘三郎が常設の小屋を建て中村座・市村座・森田座が幕府公認の常設場の三座となりました。この他にも寺社や地方でも歌舞伎 が盛んに上演されました。芝居は明け六つ(午前6時頃)に始まり夕方暮れ七つ(午後4時頃)に終わりました。幕間に弁当の 休憩時間がありこれも芝居見物の楽しみでした。歌舞伎は錦絵の題材になり多くの役者が書かれました。 役者の衣装と髪型や化粧の仕方は庶民の手本となり時代のファッションリーダーとなりました。

 浮世絵ープロマイド    

浮世絵の創出者鈴木晴信は八頭身の美人画で人気を博しました。浮世絵には様々なジャンルがあり、美人画・役者絵・春画・風俗画 があり延宝(1673?1681)年頃から多刷りの色鮮やかなものが登場します。版画はまず版元がいてプロデュースして絵師が絵を起こし それを彫師が木版に彫り刷師がそれを刷って一枚の絵に仕上げ1枚32文ぐらいから売られていました。美人画は当時人気のあった 遊女たちをモデルに、役者絵は歌舞伎役者達を描き現代のアイドルのプロマイドと同じようなものだつたと思われます。春画は絵師 達が日銭かせぎにせっせと励んだものです。風俗画は当時の写真機のない時代に当時の様子を絵に残しているので当時を再現するのには 良い方法でした。遊女を描いた錦絵は髷型や化粧の仕方着物の文様などファッションリーダーとしての情報が詰め込まれプロマイドとして 地方のみやげ物として庶民に買われました。

 遊郭と岡場所ー性のはけぐち    

吉原は江戸で唯一の幕府公認の遊郭で最大規模の遊女町であった。明暦の大火で焼失する前を元吉原、半年後に浅草日本堤に 移転したのを新吉原又は吉原と呼んでいました。働き盛りの大量の男であふれていた江戸では、遊郭だけでは男の欲求を満たし 切れずΓ岡場所」と呼ばれる私娼の営業を黙認していました。吉原には遊女が3000人以上いたとされいわゆる 花魁 といわれる 高級遊女も細かくランクづけされ花魁の代金(12万円位)のほかに酒料理代妓楼へのチップを含めると相当な金額になりました。 約2万8000坪の敷地の周囲は お歯黒どぶ と呼ばれる2間幅の堀をめぐらし、外界と敷地内を遮断していました。 山谷掘の日本堤にやってきたお客は水茶屋や食べ物屋の中を通り吉原大門へとたどり着きます。女郎たちは格子窓をひつらえた  張見せ で男性の指名を待っていました。吉原は江戸観光のスポットになっており江戸に出てきた地方武士や江戸見物の観光客 遊女のファッションを見ようという女性がこぞって訪れました。反面岡場所は格式張らず気軽に遊べる場所としてΓ夜鷹」や Γ船饅頭」は中間や下級奉公人を相手にしていました。

 江戸の生活ーライフスタイル 
●識字率ー義務教育
寺子屋等による手習いで庶民の識字率の高さ(識字率は就学率から推計するしかない。)は江戸(80~70%)ロンドン(20%以下)パリ(10%以下)で幕末に江戸にやってきた外国人達はΓ日本人は男女階層を問わず読み書きができる」と驚嘆されました。このことは文化を支える底力があることを物語っています
●貸本屋ーレンタル屋
文化5年(1808年)には貸本屋は約700件あったとされ1軒あたり170人以上の顧客をもっていたことになります。 本を背負って貸し歩く行商人もいて売値の6から10分の1の安さだといわれています。裏長屋の住人も利用することができたと思われます。
●古着屋ー古着屋
既製品の着物や古着は古着として安く売られていました。新しい着物は値段が高くよほどの上級武士や豪商でなければ新品の着物に袖を通すことはありませんでした。柳原の土手や日本橋富沢町に古着屋が多くありました。
●口入れ屋ー人材派遣業
武士階級は対面上多くの使用人を抱えていました。彼らの給金や食事代も負担となり、安い賃金のいまでいうパートタイマーのような人をやとうようになりました。今でいう派遣社員のようなものでした。
●献残屋ー買取り屋
江戸では武家どうしまたは町人から武家への進物物が多くありました。その中から不要な物を買い取って転売するのを生業としていました。
●行商人と屋台売りー100円ショツプ
行商人と屋台は食糧・日用品を少量で買える4文銭(100円)の均一価格で売っていました。いまでいう100円ショップの元祖です。

※ここで現在と少し違うライフスタイルもありました。江戸はリサイクルが完全な町でおよそ生活用品の全てに専門の修理修繕業がいました。余程修繕の利かないものは永代島に投機されました。現在のように壊れたらすぐ新しい物を買い求めるということではなかったようです。

文化文政期(1804~1830)年のおよその物価   1文12~25円
髪結1回(26文)・風呂屋1回(8文)・米1石(7000文)・酒1升(250文)・ 浮世絵1枚(32文)そば1杯(16文)・鮨1貫(8文)・煙草1KG(427文)

※参考文献
CARTAシリーズ ゼロからわかる江戸の暮らし 監修正井泰夫 学研マーケティング
歴史REAL 江戸の食と暮らし 企画有沢真理 洋泉社
朝日ムック 歴史道江戸の暮らしと仕事 朝日新聞出版
CG日本史 江戸の遊び 双葉社
歴史REAL 江戸大図鑑 洋泉社
晋游舎ムック 江戸新知識100 晋游舎
歴史REAL 大江戸くらし図鑑 洋泉社
日本ビジュアル生活史 江戸の料理と食生活 原田信夫編 小学館
ビジュアルNIPPON 江戸時代 監修山本博文 小学館

 あとがき 
日本(江戸)は徳川の政権下260年間戦のない社会でした。鎖国体制を敷き外国から攻められることもなく泰平の時代を過ごしました。全国の各藩の大名達も参勤交代によって江戸に集められ大名屋敷での消費生活をすることによって、商人や職人が集まってきて、江戸は全国の縮図のような町になりました。これにより経済の成長率は飛躍的に伸び社会は豊かになり、文化も花開くようになりました。江戸が東京の原形として今に伝える文化の水準の高さは驚嘆するばかりです。
当時の生活を類推する方法として史料としては喜多川守貞Γ守貞漫稿」が当時の風俗を幅広く伝えており貴重な史料といえます。又錦絵も歌舞伎のような華やかな世界を伝えるだけでなく、庶民の生活の様子や風俗を伝えており写真機のなかった時代当時の様子を知るのには貴重な史料といえます。江戸の伝統を今に伝える文化の継承は400年という時空を超えて興味深いものがあります。世界遺産としての和食であったり、世界の有名な画家に影響を与えた浮世絵であったり文化の高さを誇るものでありました。

 

             戦のない平和な世界でありますように

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