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 近世(織豊政権から江戸時代) 

 南蛮貿易 

 15世紀後半から16世紀にかけてヨーロッパでは新航路の開拓・海外貿易の拡大・キリスト教の布教・植民地の獲得をめざして、大航海の時代に入った。その先頭に立ったのがスペインとポルトガルであった。彼らは植民地化した各地を結んで商品を各地に運び利益をあげた。日本では南蛮貿易と呼ばれ琉球いも(さつまいも)・ほうれん草・春菊・にんじん・とうがらし等の野菜が伝来し、又砂糖の輸入に伴いカステラ・ボウル・カルメイル・コンペイトウ等の製法が伝わり、中でも一番重要だったのが鉄砲の伝来であった。当初種子島に伝わり堺・紀伊の根来・雑賀・近江の国友等で国産化され大量生産された。戦国大名の間に急速に普及したが、これにいち早く目をつけたのが織田信長で全国統一を実行していく。武士の戦法を変えた武器の出現であった。

 

 織・豊政権の推移 

 長い戦国の時代を終息させたのは織田信長だった。彼は最新鋭の鉄砲を使い旧勢力(室町幕府・真宗の一向一揆)を倒し新しい支配体制を作ることを目指して施政面においては楽市・楽座令を出して商工業の発展に尽くした。信長の後をついて天下統一を実践したのは豊臣秀吉である。秀吉は東国を軍事的に征服する方針を転換し、朝廷のもつ伝統的な支配権を利用して関白となり支配を強めていく。軍事的にも全国を平定した後兵農分離を推し進め、刀狩を行い農民の身分を明確にした。太閤検地を行い全国の生産力が米の量で換算された石高制が確立された。この結果農民は自分の所有権の土地を持つことになったが、領主に年貢として3分の2を納入することになり、農民の生活は苦しかった。公家や武士は日常の食事に米を用いたが、庶民の多くは雑穀を常食としていた。

 

 江戸の成り立ち 

 徳川家康は北条氏の旧領地関東に移封されて、250万石の大名となった。彼はインフラを整備して、江戸と諸国を結ぶ五街道を整備し本陣・脇本陣・宿場街を作り文化の伝播にも役立った。日常の生活に必要な飲料水は神田上水・玉川上水等を利用して江戸中に木桶をはりめぐらせ市中に水を供給した。大消費地である江戸に大量に荷を運ばさせるために樽廻船や菱垣廻船を利用して運河で河岸に運ばれた。肉食が禁忌の時代に江戸湾の江戸前の魚は江戸市民の重要なたんぱく源になった。農村に於いては幕藩体制の基礎である米の徴収を村に一任し(村請制)村役人は名主・組頭・百姓代の三役を置き、本百姓の自治的な運営がなされた。村役人は読み書きそろばんが出来る人が地方にも出現し地方の文化の歴史資料としての文献も残せるようになり、地方文書の存在は食文化史の資料的な役割に大きな貢献をした。
 江戸には仕事を得ようと集まる町人や参勤交代でやって来る諸藩の武士が独身で住んでいた。そのためファーストフード的な食べ物や吉原の遊郭街も盛んになった。1750年代の120万人を筆頭に江戸はロンドンを凌ぐ世界でも有数な大都市に発展した。その頃の京都で43万人・大阪で23万人の人口を有していた。

 

 260年間の徳川政権 

 江戸を天下の城下町として、役所や儀礼の場を備えた政治の中心地とした。政治的に圧倒的にたった幕府は、諸大名を改易や転封して中央集権的な政権を成立させた。幕府創生期の慶長期から貞享期は天下泰平への道を歩み、享保期から寛政期にかけては町人文化が花開いた反面、幕府としては変革と転換の時期であった。享和期から慶応期にかけては内憂外患から開国へと時代は移り、徳川政権の終焉を迎えるのである。徳川政権が長期にわたり政権が維持でき列強の外圧にも屈せず独立できたのは、武家の力だけでなく一般民衆の経済・文化に対する寄与も大きかったといえる。

 

 食生活の変化 

 江戸時代になると農村でも文字を読み書きできる層が増え各地域に残された家文書の研究が進み農民のイメージも明らかになってきた。農民にも豪農もいれば水呑百姓といわれる土地を持たない農民もいた。このように身分制度の中でも農民どうし互いに共存しあい、あるいは搾取しあう支配関係が成り立っていた。農民は年貢に関係のない青果類を作り江戸や近郊の都市化した街に出荷して、生活も改善されてきた。しかし幕藩体制基盤となる米を年貢として納めるため一部の作量の多い地域を除いて雑穀やイモなどを食べていたようである。
一日の食事が2回から3回に変化する時期は諸説あるが身分・地域・職業で差があ3回になるのは、一様ではない。中間食として食べられる時もあり夜食として3回になることもあり江戸時代寛政期に一般的になったという説もある。日常食の記録は史料として残ることが少ないため実際のところは、はっきりしない。江戸では米食が可能となり、白米の食べ過ぎによるΓ江戸やまい」と呼ばれる脚気が流行した。この時まだ健康という概念がなかった時代貝原益軒は医食同源である健康本のΓ養生訓」という本を出した。毎日体重を計り,腹八分目を実行し夫婦仲良くでストレスをなくして当時の平均寿命50歳を超える80歳まで長生きした。

 

 江戸庶民の生活 

 広大な敷地をもつ大名屋敷である武家地は70%寺社地は15%町人地は15%の広さしかなくその中に人口の半分(武家と町人が半分ずつ)の人々が住んでいた。(詳説日本史研究 山川出版)例えば寛保3年(1743年)の幕府の調査によると男性が31万人女性が18万人と圧倒的に男性社会であった。地方から単身で江戸に移入したと思われるのと、武家が参勤交代で単身で来る人々に簡易な食事を提供する商売の成立する基盤があったと思われる。町人の住居は賃貸が多く9尺2間のワンルーム(3坪程度)の裏長屋に住み部屋の中にはかまどや水桶・食器棚が揃っており中庭には共用の井戸や雪隠(便所)芥溜(ゴミ箱)があった。

 

 江戸時代の大阪・京都 

 天下人の城下町から西国大名の監視と経済の拠点となり町人の町へと変わった大阪は天下の台所として機能し始めました。町人(特に商人)が力を持つようになり経済や文化の先進地上方として発展し、江戸文化が成熟するまで、江戸に大きな影響を与えました。武士の人口1万人に対して町人の人口が30万人という数字が町人の町として新しく生まれ変わったといえよう。江戸時代の経済は米が基準で、大名が領国内から集めた年貢米を大阪・江戸に運びこれを売って支出にあてていた。大阪には米ばかりではなく武具類から日常品に至るまで、多くの商品が集まってきた。それに伴い現在の銀行のような役割の両替商が盛んになり、その経済力は全国に鳴り響いた。京都は天皇や公家が居住し寺院・寺社が多く存在し、又高級な技術を誇る工芸品は幕府や諸大名の注文に応じていた。天皇の位置は幕府に武士の棟梁として全国を支配する正当性を付与することであり、反面将軍を天皇の下に位置ずけることになりこのことが幕末に天皇が力を持っていく一因となる。

 

 経済の発展 

 手狭になった領地は新田開発や干拓に力が注がれた。これにより生産量が増え石高も増えていった。村の百姓の食物は雑穀を用い米を多く食べないようにと命じている。(御触書享保集成)畑作作物や米以外の商品作物も盛んに作られ社会全体が貨幣経済に組み込まれた。兵農分離によって村役人に文書を管理させ村々を支配した村では識字層が増えて各地での地方文書が残された。漁業も漁法が進歩し重要な産業としての地位を確保した。律令国家以来の祖に始まる年貢としての米は日本全土で作られるという性格を持ち、小麦に比べて生産量も多く収穫後の保管にも適している。また流通の面でも大阪や江戸に運ばれた。武力による領土拡大ができなくなった諸大名は新田を開発し石高を増やし産業も特産物などを作り収入を増やしていった。反面東北の農村などで飢饉などで多くの餓死者を出したという事実も忘れてはならないだろう。近世社会が裕福になっていくのは享保つまり近世中期以降のことである。

 

 外食文化と世界に誇る和食 

 江戸をはじめ都市の消費者は多忙な暮らしの中で外食する機会が増え新しい料理が次ヶと生まれた。家賃が余りかからない屋台が増え、ニ八そば・汁粉屋・てんぷら・団子売り・飴屋・西瓜売り・水売り屋等があった。その他にぼてふりと呼ばれる天秤棒をかついで野菜や魚等を売り歩く店もあった。
 現在の私達が和食と呼んでいる鮨・蒲焼・そば・お茶漬け・天麩羅などの食べ物屋が出揃うのは19世紀の文化・文政期である。かっての屋台料理が一軒の店舗を構えるようになり美味しさと豪華さを競いはじめる。鮨は江戸前の海で獲れたし、蒲焼は江戸時代に普及し始めた醤油と味醂が旨さを倍増させた。出汁の存在も鰹節・昆布・にぼし等が美味しさを増した。18世紀末に醤油が大量に使われるようになるのは、野田や銚子などから河川で江戸に入るようになってからである。印刷技術の進歩とともに料理書や料理屋番付が発行され江戸時代のグルメ文化が花開いた。町人は絢爛豪華さを好み、質素倹約を旨とする武家(幕府)はこれに対して禁止令を出して規制した。遊びとして飽食を楽しむ都市の文化と飢えに苦しむ農村の厳しい生活が同時に進行したのである。

 

 庶民の楽しみ 

  宝暦期(1751~64)以降関東周辺では伊勢参りが盛んになった。伊勢への代参講は村内の人々が講を作り集めた金で代表者を選び参拝するものである。享保3年(1718)4月伊勢山田奉行が幕府に対し伊勢参拝者を42万7000人と報告している。往きは東海道で帰りは中山道で帰るというもので道中の名所・神社仏閣を巡り珍しい物を食べると言う物見遊山的な性格を帯びていた。時期は1月から4月の農閑期が多く全国から詣でた。この他に金比羅参り・富士山信仰・大山詣で等があり多くの旅人が行き来できたのは五街道の設置が大きく貢献している。江戸の近くでは各神社の祭礼があり、桜の時期は隅田川堤・王子飛鳥山があり歌舞伎や寄席・見世物小屋等があって江戸庶民は余暇を楽しんでいたようである。

 

 商人の台頭と社会の変移 

 平和な状態が続いた江戸時代は農作物の取れ高も増え、各種の産業も一段と発展しました。年貢のお米に頼っていた幕府や各藩は独自の特産物を作り出すものの商品経済の発展には追いつきませんでした。そこで力を持ったのが身分制度(士農工商)では一番下に位置する商人達でした。彼らは各地の生産物を全国に配達し、大きな利益を得て経済的に優位にたちました。
大きな町になった江戸では、商業が大きな役割をになうことになります。その結果ますます力を持った商人は生活に優雅さや豪華さを求め又食生活も贅沢になりました。質素・倹約を基調とした幕府や各藩は、それを各種の改革によって制限し、抑えようとしましたが効果は上がりませんでした。家康の時代に復古しようとした享保の改革、次に幕府財政と藩財政の危機と百姓一揆の高揚・各都市での打ちこわしに対して安政の改革がおこなわれ、ついには幕藩体制を揺るがします。内憂外患の本格的な危機に対処するためには、天保の改革がおこなわれました。この改革ではすべての階層に厳しい倹約令と風紀規制令を出しました。(華美な衣服・錦絵の禁止・幕府に不都合な出版物を取り締まる)。深刻な物価騰貴は劣悪な貨幣の大量鋳造と商品流通の構造変化の為ほとんど効果がなかったようです。物貨騰貴は町人の生活を圧迫し、民衆の幕府に対する不信となり経済も低迷しました。

 

 幕政から新政府へ 

幕藩体制を急速に衰退させる要因は列国の開国の要求と通商条約の締結であり、長い間鎖国をしていた幕府(日本)は資本主義的世界市場へと組み込まれるのでした。もはや幕府だけの問題ではなく朝廷や各藩と連携し難局に対処しようとしましたが、その結果朝廷や雄藩が台頭し幕府の専制的な政治運営を転換させる機会となりました。攘夷が不可能なことが明らかとなった雄藩は幕府の大政奉還を要求し朝廷はこれを受理しました。薩長両藩は武力による倒幕を目指し公武政体派を圧倒し幕府は新政府と対立することになった。戊辰戦争により新政府軍は圧倒的な優位にたち国内の統一がひとまず達成されました。長期にわたる全面的な内戦におちいることなく比較的短期で終始できたのは新政府側も幕府側もともに国家の独立と植民地化の危機を避けようとする姿勢を持っていたからでしょう。ほぼ同年代に世界で起きた出来事でアメリカの南北戦争(1861~65年)で戦死者62万人フランスのパリコンミューン事件で戦死者3万人に比べ戊辰戦争の戦死者は8240人とそれほど大きな数字ではありませんでした。

 

      年表      近世

1588年       羽柴秀吉関白となる
1588年      刀狩令を発す
1603年      徳川家康征夷大将軍となり江戸幕府を開く
1635年      参勤交代の制確立
1657年      江戸明暦の大火
1783年      天明の大飢饉
  ~
1788年
1837年      大塩平八郎の乱
1860年      桜田門外の変
1867年      大政奉還・王政復古の大号令
1868年      明治維新

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