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 中世(鎌倉時代から戦国時代) 

 中世武士の誕生 

 藤原氏の摂関政治の後、平氏・源氏の台頭をして新たなる武者の時代へとすすむのである。古代末期になると班田収受法は有名無実となり地方の有力者・国司・寺社・武家等は土地を寄進し中央の有力貴族の保護を受け私的な農地(荘園)を所有することになった。こうして私有地になった荘園が生まれ地方に成長した豪族や有力農民が勢力を拡大する為武装した集団が生まれた。これが僧慈円が「愚管抄」で記したムサ(武者)の世が到来したといわしめた。武士たちは土地に根づいた現実的実際的な生活を行っており食生活も自然食に近いもので、新鮮な野菜や獣肉などを取り入れ、健康的な食生活だったと思われる。中世武士の特徴はそのほとんどが地方に生活の場をもうけ、耕地開発や農業経営や生産に関わり次第に大きな武士団を形成していった。貴族の模倣に徹した平氏と異なり源氏が樹立した鎌倉幕府は武家法を制定して封建制度を作り上げたが荘園制は今だ温存されており公家・武家・僧家の支配が温存する社会構造であった。その中で新しく土地の給与を通じて主人と従者が結びつく関係を封建関係といいこの関係によって支配が行われる政治社会制度を封建制度と呼ぶ。諸国に守護、荘園や公領には地頭を任命して東国を中心にして頼朝の支配権​が拡大していく。

 

 中世の仏教界 

 旧仏教は鎮護国家や貴族達の現世利益のためにあり、広く民衆の心を救済するという問題意識は持っていなかった。朝廷が天台宗と真言宗と親密の中で鎌倉六宗といわれる新仏教が登場する。浄土宗の法然・浄土真宗の親鸞・日蓮宗の日蓮又禅宗では臨済宗の栄西・曹洞宗の道元などであり現在仏教界で開祖といわれる人物が多数排出した。栄西は中国から緑茶を移入し喫茶の風習は禅僧から武士・貴族・そして庶民へと普及した。又道元は僧堂で食事を用意する典座のありかたを「典座教訓」に、食事作法を「赴粥飯法」に著し法食一等を実現しようとし、食事について初めて説いた僧侶だった。平安末期に貴族の間で流行った大饗料理が新仏教の影響を受け精進料理と結びつく。精進料理は中国文化の流れを汲み、魚肉を避けた清浄なイメージをもつが、本格的な成立は禅宗寺院を中心に定着させた鎌倉期以降である。

 

 経済・産業の発達 

 手工業品を必要とする農民の側も富を蓄えつつあり物が商品として確立するにいたった。商業活動も活発化する中で月に3度くらいの定期市が開かれ年貢米や各地の名産物も広く流通するようになった。特に貨幣経済の発展はめざましく日本にも沢山の宋銭が輸入され、その量は2億貫にものぼつた。荘園の物資を倉庫に納入し適当な時期に市場に出し利益をあげる問屋もこのころ起こった。農業も二毛作をおこなうようになりました。

 

 室町幕府の推移 

 鎌倉幕府を引き継いだ北条氏は執権政治を行った後足利尊氏によって滅亡させられる。義満の時代幕府は京都の室町におかれて室町幕府が開かれる。鎌倉武士の質素なイメージと違い京都だったため生活様式もきらびやかになり食生活の内容も様相を異にすることになる。室町期に入ると大饗料理の影響を脱して本膳料理が本格的な日本料理として独自の様式と料理法を確立させた。京都で将軍権力の弱体に伴い幕府政治の実権が有力大名に移っていくなかで約1世紀に及ぶ戦国時代の口火をきったのが応仁の乱であった。

 

 本膳料理と懐石料理 

 精進料理と本膳料理が成立したことで今日に通じる日本料理の形式や料理法がほぼできあがった。その中で登場してくるのが会席料理である。茶の湯の発達と密接な関係にある会席料理もわび・さびを通して簡素化していった。利休は茶会の後に行われる酒席の宴を省略して一汁三菜程度の料理を供することを理想とした。禅僧が温石を懐にして空腹感をしのいだ故事に由来し茶事で供される軽い食事を懐石料理と称した。懐石の由来を考慮すれば茶の湯に伴うものに懐石料理の文字を当てることが望ましい。「懐石」の文字が登場するのは、江戸時代元禄期のことである。 懐石料理は茶の湯とのかかわりから精進料理との関係が深く形式と料理法は本膳料理に習っていることから精進料理と本膳料理の双方から大きく影響を受けて形成されたものといえる。

 

 中世の料理 

 家職としての料理人は公家や武家に仕えて儀式などの料理を作っていた。 魚鳥料理を中心に調理した包丁師と穀類や野菜を調理する調菜人が対の職業とされ四篠流は公家の大草流・進志流は武士の料理流派として形式を整えていった。いつの時代もそうだが中世の食事においても階層や地域経済力などによって取り入れられる食品・献立・食器・食べ方などが異なっている。砂糖は京都の貴族地方の豪族などの上流階級人々が薬用や菓子原料として砂糖を独占していたが、室町中期になってようやく一般にも知られるようになった。味噌は古くからの調味品で醤油の原形はできたが、一般に普及するのは江戸時代になってからである。しかし一般の人々の生活は飢饉や疫病の蔓延戦争などで多くの餓死者をだしている。

 

 戦国時代 

 応仁の乱以後将軍義輝は暗殺され暗殺した者もつぎつぎに家臣に殺された事件は下克上の世を象徴する出来事であった。又地方では各階層の武士たちが領国を作り上げ独自の支配を行う地方政権が誕生した。これが戦国大名でありこの時代を戦国時代という。戦国大名は領国内の土地を家臣や寺社に分け与えたため自分の土地は直轄領だけであった。このため財源としては段銭・棟別・棟別銭などの税収であった。その額は年貢徴収をはるかに上回るものであった。また城下町を中心に1つの小さな経済圏を造るため交通制度を整え商業取引の円滑化にも努力した。応仁の乱により京都は荒廃したので公家などの文化人が地方に下り文化の伝播に果たしたやくわりは大きかった。戦国大名たちは自国の領土を拡大しようと隣国などに侵攻していった。全国的な規模で約1世紀わたる戦国の世が繰り広げられるのである。この時期に画期的な戦闘の変化は種子島への鉄砲の伝来であった。この鉄砲は堺や国友等で国産化され、これをいち早く取り入れた織田信長が全国統一の願望を実行していくのである。

 

年表   中世(鎌倉幕府~戦国時代)

    1192年    源 頼朝  鎌倉に幕府を開く
    1203年    北条氏   執権政治始まる
    1274年    文永の役  蒙古来襲
    1281年    弘安の役  蒙古来襲
    1334年    建武の中興
    1338年    足利 尊氏 征夷大将軍となる
    1378年    足利 義満 京都・室町に幕府を開く
    1392年    南北朝の合一
    1467年    応仁の乱
    1467年
      ~      戦国時代
    1573年    室町幕府滅びる

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