top of page

◆食文化史◆

歴史と言えば主に政治史・社会制度史・経済史等が注目を引く。その他に個別の分野で教育史・交通史・宗教史等があるが、長年食文化史というのはおきざりにされていた。人が生きていくのに基本的な食料は時代時代で変わらないために連続性のあるもののようにとらえられていた。実は食文化は時代とともに変化し現在でも大切な問題でもある。常に人は食料を糧に生きてきたからだ。
各国にも食文化の歴史はあるが、ここでは日本食(和食)というものに限定して述べてみたい。食に関連する出来事は網羅したがその他の歴史的記述は多少省略させていただいた。又一般庶民の記述は江戸時代まで資料が多くないので連結をもたせられないことが残念なことである。
参考文献
   詳説 日本史研究   五味・高埜・鳥海編   山川出版社
   日本史年表・地図   児玉幸多編       吉川弘文館
   日本の食文化     原田信夫編       放送大学教育振興会
   和食と日本文化    原田信夫        小学館
   日本食物史      江原・石川・東四柳   吉川弘文館

 

 人類の発生から古代 

 猿から人へ 

類人猿から人に進化したのはいつかということは専門家の見解にまかせて
人類の特徴は(1)二足歩行し(2)両手で道具を使い(3)火を扱い(4)労働をして
言語を基礎とする文化をもつことといわれている。この中で料理に関する
ことといえば(2)と(3)と(4)である。火は火山や雷等自然界にもあり偶然とは
いえ身近なものとして存在していた。道具を使うということは石鏃や少し
後で土器など料理の時に使うものとして初期の段階で発明された。火と水は
料理には欠かせないものであり火を自由にあやつり獣肉等を美味しく食べることができるようになったのは人類と動物との分岐点であったといえる。

 

 日本列島の誕生 

一万年前更新世が終わり地球は温暖になって完新世(沖積世)に入る。氷河が後退して陸地はだいたい現在のような姿になったと思われる。この大陸との距離が文化的にも寄与し日本の歴史は中国大陸と朝鮮半島の関連で形成されてきた。地球は植物の繁茂により採集が容易になり魚介類も多く利用されて食生活は段階的によくなった。
日本の国土面積は約37万8000平方Km北海道から沖縄まで南北約3500Km東西3000Kmに及ぶ。国土面積の70%が山地で平地は30%に過ぎない。必ずしも農耕に適した面積をもつとは言えない。
国土の大部分は温帯アジアモンスーン地帯に属すが亜寒帯や亜熱帯的気候も含むことになる。日本の海岸線が入り組んだ島国であるとともに山地部が多い山国という特色ももつている。

 

 縄文文化 

縄文文化は約12000年前に始まり約2300年前に弥生文化に移行するまで 1万年も続いた。その間に大陸から切り離され現在の日本列島が生まれ、自然環境も大きく変わった。氷期から後氷期への温暖化で漁労が盛んになり貝塚に代表 されるような海への適合が現れる。この時期の大きな特徴は土器の出現であった。土器は植物系の食料を料理する時煮沸調理の必要から考案されたと考えられる。この時の土器は表面に縄(撚糸)をころがしてつけた文様が多いので縄文土器と 呼ばれる。縄文時代人の基本的な生業は狩猟・漁労・植物系食料の採取であった。 例えば河川を遡上するサケ・マスは栄養価が高く比較的捕獲が簡単なので内陸部でも食料として重宝した。 当時は余剰の食物がさほど多くなく、貧富の差はなかったと考えられる。

 

 世界の中の米文化 

ヤマイモやサトイモなどの根菜農耕は広く世界的に分布しているが、主に
ユーラシア大陸に発達をみた種子農耕の中で代表的なものは稲と小麦である。稲が高温多湿を好むのに対して小麦は寒冷乾燥がてきしている。西北部は粉食にされパンなどとして焼かれるが米は粒食の場合が多い。中央アジアで発展した遊牧文化の影響で牛や羊の牧畜と結びついてパンと肉及び乳製品を主体とする文化が生まれた。東南部は高温多湿な気候から水との関係が深まり水田や海での漁労と結びつき米と魚を中心とした食文化が形成された。中国・朝鮮半島に近い日本に気候的にも適した稲が半島を経由して技術が渡ってきたと考えるほうが間違いはないと思う。

 

 弥生文化 

紀元前5~4世紀頃水田稲作農耕が始まったと推測される。弥生文化の大きな特徴は水稲を基礎とする農耕と鉄器や青銅器などの金属器の使用である。稲作の起源が中国の黄河流域で紀元前6000年頃と考えると朝鮮に渡り日本に伝播されたと考えられる。
このように農耕社会を形成していた朝鮮半島南部から稲や金属器を携えて日本列島に渡ってきた渡来人が縄文人と共に生み出した文化だと考えられる。この時の土器は薄く堅く明るい色に焼かれ、文様が少ないなどの特徴をもつことから弥生式土器とよばれる。縄文時代と弥生時代は採集経済から農耕経済への経済基盤の違いで区別される。稲作技術が一般的になったかというと、伝統的な採集・狩猟・漁労などの食料採取も盛んに行われている。しかし水田稲作という高度な農耕を取り入れたため弥生時代に日本列島の社会構造は著しい発展をとげた。中国の史書に“倭国乱れて百余国をなす”ときされ各地にいくつかの小さなクニが成立したと見るべきだろう。

 

 古墳時代 

弥生時代にいくつもの集団(小国・クニ)が成立したことを述べたがこの集団
同士で農地の拡大・水利権の確保・余剰生産物の収奪から戦いが行われた。
この時代の特徴である古墳は近畿を中心に分布しており中小の小国がまとまって
より大きなクニを造ったと思われ、それがこの古墳出現の前提となる広域の
政治連合は近畿の大和の勢力が中心となったと思われる。そのころのクニの
様子は魏志倭人伝に記してある。
朝鮮半島や中国との盛んな交渉によりこの時期の特徴である鉄器・青銅器等
の金属品・土木技術などが朝鮮半島の渡来人によって伝えられ、彼らを技術者集団にして各地への伝播に充てさせた。又文字の使用も始まり大和政権の律令国家成立の基盤はできたと推測される。

 

 原始古代の食生活 

原始古代の食生活 1万年前の更新世が終わり地球は温暖化になり完新世(沖積世)に入る。氷河が後退して陸地はだいたい現在のような姿になったと考えられる。この当時から 現在まで地球環境や植物環境はほぼ同じといえる。自然環境はさほどのことがないかぎり変わらず当時に食されていた物が継続されていく。その中で 希少な物や美味しい物が支配階級の食物となり、多量に採集できた物が一般庶民の食料となる。中でも稲が大きな収穫を占める物となり、人々の中で分配 されていくと考えていいだろう。正倉院文書や出土遺跡から

1. 木の実  クルミ・ドングリ・クリ・トチがある。ドングリやトチはアク抜きをしなければ 食料とはならない。これらの木の実が食料として重要な役割を果たしたのは長く保存できたことであり、栄養的に優れた食品であったといえよう。

2. 雑穀  ムギ・アワ・キビ・ヒエ・トウモロコシ・ハトムギ日本で古くから栽培されてきた雑穀もあるが遺物資料としてはさほど多くはない。

3. 稲   歴史書の中で論文や記述にしても、稲は特別なものとして扱われている。これは稲が水田耕作で急速に広い地域で量的にも生産され、律令時代の祖の基礎となったり新しくは石高制度の基本となったものであることから稲が全国的に広がり多くの収穫量をもち広範囲に収穫されたもので日本の政治上のシステムとして重要な作物であった。水田耕作は収穫までに多くの人手を要することから農業集落社会の形成と関わり、村ができ、そこにリーダーができたりと社会を変える要素ももっていた。米は租税・年貢として支配階級に収奪される物で米のみで人々の食生活が成り立つわけではなかった。

4. 野菜  ナス・ダイコン・セリ・カブラ・ショウガ・サトイモ

5. 魚介類  タイ・カツオ・スズキ・マグロ・アジ・フグ・マス多量の魚骨や貝の残骸を捨てる貝塚から出土している。古代の魚介類は調として寄進したため各種の加工が施され京に運ばれたアワビ・ハマグリ・カキ・コンブなどが良い例である。

6. 果実  ウメ・モモ・クルミ・カキなどは菓子としても扱われた。以上の食料は政治制度が変わっても収穫にはかんけいなく、継続されていくのである。

 

 ヤマト政権の発展 

ヤマト政権は氏族間の争いや朝廷内部の権力争いを経て唐から帰国した留学生や学問僧から最新の統治技術を学び国家体制を整備し、その中に諸豪族を編成することによって官僚制的な中央集権国家を建設し権力集中を図ろうとしていた。
大化の改新によって公地公民制(第1条)・地方行政編成(第2条)・班田収授法(第3条)祖・庸・調の税制(第4条)が定められ律令体制の骨格は固まったが実際は完璧なものではなく天武天皇(在位673~686年)によって推進されていく。律令制度が成立すると、儀礼的な行事も増えてくる。今でも行われているように行事の後には必ず飲食がついてくるように律令制度内飲食専門の官職がおかれた。律令国家の宮内省に天皇の食事を担当する内膳司と宮廷の食事を扱う大膳食があった。
 このことは一定の料理様式が確立し、調理技術の体系が整っていたことを予測させる。日本料理の始祖とされる磐鹿六雁命が景行天皇に料理を供したと記されている。

 

 食文化の発展 

「日本の食生活の原形もまた古代律令国家の形成期に基本的な枠組みが造られた点が重要であろう。」(放送大学テキスト日本の食文化原田信夫)
生活面でも中国文化の影響を強く受け大饗料理とは平安貴族の藤原氏などが高位の貴族を招いて催す大掛かりな饗宴料理のことである。匙と箸とが添えられている点と食卓も膳ではなく、中国的な台盤である。味付けは手前に並べられた四種器と呼ばれる酢・酒・醤・などで食べる時に自分流に調味するものであった。この料理様式においてもっとも日本的なのは切るという技法である。今日にも伝わる刺身は古代以来のもっとも典型的な日本料理と言える。その他に発酵調味料の醤やバターの様な蘇や日本酒の製造等があげられる。

 

 武士団の発生 

大化の改新から平城京・平安京・藤原氏の摂関政治を通じて、土地の制度は変わるものの、土地は基本的に公家や寺社や 豪族の所有でした。荘園が長く続いたこれらの時期は上級の貴族に権力が集中し彼らに保護を求める者や任官を求め経済的 な富はますます集中していきます。そしてその地に力を伸ばしてきた豪族や開発領主に彼らを国の任官として徴税を請け負わ せてきた。10世紀に政治が大きく変質していく中で地方の各地に成長した豪族や有力農民が勢力を拡大するために武装して 戦うことになり、又他方畿内近隣に成長した豪族が朝廷や貴族に武芸をもって仕えるようになったことである。彼らは各地に 一族の結びつきである大きな武士団を作り大きな流れとして源氏・平氏の戦いを頂点として繰り広げられ政治的に中央に進出していきました。

 

年表  人類の誕生~古代

   45億5000年前        地球の誕生
   10000年前          更新世・日本列島の誕生
   12000年前          縄文文化
   300年前            弥生文化
   3世紀後半           古墳時代
   5世紀後半           ヤマト政権
   538年             仏教伝来
   592年             推古天皇と聖徳太子
   607年             遣隋使派遣
   645年             大化の改新
   710年             平城京遷都
   794年             平安京遷都
   858年             摂関政治  良房摂政になる
   1086年            院政の開始
   1100年頃           源氏・平氏の台頭

bottom of page